詩投稿欄

日本現代詩人会 詩投稿作品 第30期(2023年7月―9月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第30期(20237―9月)

厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。

■北原千代選
【入選】
末野葉「分かる」
石川順一「転生先」
泉水雄矢「ムンヘイ」
気駕まり「テストの時間に」
守野麦「犬の祝辞」
【佳作】
小蔀県「園」
新梢「カロート」
梶本堂夏「Agagio February
たいち「失語」
I.me「前菜」

■根本正午選
【入選】
渡邊荘介「薄球」
田中綾乃「虹」
未来の味蕾「向日葵の晩餐会」
nostalghia「この部屋を通り抜けていい」
末野葉「手」
【佳作】
佐為末利「深海トーク」
深月水月「うみひこ やまひこ」
魚「ゆきわたる」
三刀月ユキ「不在」
南田偵一「おにぎる」

■渡辺めぐみ選
【入選】
たいち「失語」
了解「早退」
長尾衛「朝とスプーン」
芦川和樹「堆『積ハト、果樹』」
阿呆木種「視認的受動体さとる05
【佳作】
久野馨「化石評論」
吉岡幸一「螺旋階段」
卯野彩音「手紙」
南田偵一「金も、銀も」
角朋美「折鶴」

投稿数480 投稿者288

 

末野葉「分かる」

黒い色を見たいと言う人に
きちんと蟻をあげ
白いものを見たいと言うから
表示待ちのウェブ画面を見せ

いろんな人から怒られ

気が済まないのか追いかけてく人もいたので
角を曲がってギャラリーに逃げ込む

そこは銅版画の個展会場になっていて
わかったふうに作品たちを覗き込んでみ
その作家は赤色が菫色に
草色が湖色に見えていた人のようだった
なーんだ そっか と納得し
会場をあとにす

昔々、灰色の虹の写真をくれた人がいた
その時は灰色の虹を
ありふれていと思っていた
久しぶりに引き出しから取り出して見
あっけらかんとした青空と
薄まっては濃くなのを繰り返し
我々が複雑な存在であことは我々自身よく
自認しておりますからという風情に茂木々の
緑のうえにかかった
勇敢な灰色の虹
水の粒ひとつひとつが
決然と 色を脱ぎ捨てていた

まだこの指も手首も柔らかかった頃に
こんな色ならかわいかろうと
無邪気に黄色で塗った花たちよ
あなたたちのほんとうになりたかった色は
まなざしを恐れず佇む
影のような色だったろう

 

 

石川順一「転生先」

二十足す八十一は百一
二十足す一足す八は二十九と
気を紛らしながら
久能山の石段を登って居たら
ホーキング博士が亡くなっていた
自分ちの庭に帰っても
何もない
無為で少しのリグレットを
抱えた私では
西門の守護神アンバサダーを倒せず
東門から入った
リストで自分の名前を確認する
そんな紙が土の上に
落ちていた
アオキの木に朝顔の蔓が絡まっているが
花が全然咲いて居ない
ヘリクリサムもだ
庭の土が心なしか
柔らかく感じられた
これならホーキング博士の
転生先が分かるような気がした

 

 

泉水雄矢「ムンヘイ」

秋吉台の草むらに 潜む巌にむす苔の
その僅かな湿り気について考えていた

リラの花はまだ北京で揺れているだろうか
酒瓶を片手に、縁側に腰かけ
祖父は酔うと時々 満州の話をしていた

温かい話だ
中国人とよく麻雀をしていたよ
北京の料理は美味しかった
優しかったんだ
助けてくれたんだ
鉄道で襲われる前に 人民服を着せてくれて
ムンヘイムンヘイ

何も知らない私は 笑顔で聞いていた
おじいちゃん よかったねって
事実を知るのは それから数年後のこと
教科書の満州は 私のそれとあまりに違って
硬く 赤黒く 冷たかった

誰も自分の背中を語る事などできなかった
透けるように無知だった
ガラスは咎のように打ち付けられて飛散し
柔らかく 今も草むらに潜んでいる


第二外国語に選んだ中国語では
先生がはじめに 中国読みを書き足していく
私の苗字の横には
ムンヘイ、とボールペンが走った

夏が来る前に
春は必ず、その目を閉じていくだろう

ムンヘイ
北京の春は まだリラの花が咲くよ
何も知らず無邪気に笑っていた
リラの花が
今は無き鉄道のほとりで
薄紫の 花弁を揺らして

 

気駕まり「テスト時間に」

教室の窓から世界を眺める
回答用紙は白紙
空は青
思考は翼をもがれ
教壇の下でうずくまっている

ここは他人の恣意的な問いで
塗り固められた時間の牢獄
たった今
歴史埋もれた無数の囚人たち
思いをはせ
人間が今日定めた「正義」の賞味期限が
切れるのはいつか
考えている

図書館横の楠は
地中深く根をおろし
地上で打ちのめされても
また芽を息吹かせ
千年の時を航海していく

自分の問いの楔を
心の中打ち込もう
を失うぐらい
強く 深く

終わりのベルで
根無し草の夢が
とかれぬ前

 

守野麦「犬祝辞」

平日の朝に
大はしゃぎをする子と目が合い
祝辞を述べられる
「新日、明けましておめでとうございます」

近所の公園で
大地を蹴って青空に躍り上がった若から
祝辞を述べられる
「今こまかくお幸せに」

夕暮れの玄関で
サンバ・カーニバルを主催する中年
祝辞を述べられる
「ご活躍の最中をお讃え申し上げます」

炬燵布団の中で
しっとりしたパン種になった老を撫でると
祝辞を述べられる
「日々の折りご自愛ください」

毎日の繰り返しを
祝祭に変える
メカニズム
即ち




四万年前から
人に乞われて
今日も
家の周りを歩いている

 

渡邊荘介「薄球」

真芯にとらえたボールは
空をつき抜けて飛んでいった

白い色が光の色をやぶって
歓声といっしょに 果てまでみえず
その先は知らないでいる

きっとどこかの
草だらけの坂道をころがっているだろう
緑と茶の混ざり合った色のなかで
わずかも動かず
その場所の太陽を浴びているだろう

打ち上げられたことも
日差しを受けていることも
知らないでいる丸い影は
草むらに落ちてギザギザしていて
まぶたのないボールのかわりに
生きものみんなが泣いているようでもある

少年たちの足音が夕日と
街に溶けたあとも
涙の長い影をななめに
赤い空と丘をなぞって投げている

気がついたときには
手元にあって

そのままずっと
ともにあると思っていたいのちが
ひとりでに進みはじめたこと

胸元をころがり落ちて
両手でつかもうとしても 跳ねて
つま先で蹴ってしまう

追いかけると なぜか
涙がうかんでくる

むこうで動かない
日焼けしたまっ白ないのちは
ふりむくたび
鈴のように鳴って

カラコロ カラコロと

どこへ行くのか
どこから来たのか
告げようとしていたけれど

 

田中綾乃「虹」

あなたの手は森を撫でる風
その手にふれた時
もうひとりのかなしいわたしに
わたしのかなしさが
合わさって
光環を成した
地上のすべての恋人たちに
同じようにいくつもの
完全な日食があるように

ゆるさないのは
文字だけが 神と
信じる者たちだけ

ゆるさないのは
妻夫だけが 家と
信じる者たちだけ

古びた教会の屋根の下では
祝福されなかった愛を
四季はよろこび
野の向こうには祝祭がある
天は町に火など降らせず
灰色にほほえんでいる

こんな日々を愁いながら
やり過ごすのは終わりだ
と言って
手をのばしても掴めない
燃えるような色彩を
旗にして歩いた

まだ 口を閉ざされている
わたしたちがいる
まだ 武装の解けない
わたしたちがいる

重ねてきた掌と掌に
しまいこんだ祈り
虹は灯る
まっすぐな くずれやすい橋の袂に
昏い雨の跡を かくして

 

未来の味蕾「向日葵の晩餐会」

side A:.『召し上がれ』

≦≦≦

ひかりをたくさん呑みこむ向日葵は、太陽に手招きされていた。追
いかけて、追いかけて、黄色いはなびらが回転する。陽射しに接触
していった喉が熱い。どく、どく、揺れる夏の鼓動。静脈と動脈が
描く地図、羅針盤、磁石に導かれて。向日葵畑に浮き沈みする麦わ
ら帽子。ひろい海を航行する船のようだ。あたたかい温度を着地点
に注射する。きいろいつぼみよ、両手を広げて、背伸びせよ。梅雨
明け宣言。楽園を耕しにゆこう。廃墟であった日々を地下に埋めな
がら、肥料にして、陽気な季節が地上を取り囲みはじめる。魂の穴
に太陽を詰めこんでゆけ。ひらいてゆくはなびらは、みずのかなし
みを振り払おうとしている。梅雨のなごりの朝露を弾いて御覧。柔
い肌が、瞼が、灼けそうだ。夏空を溶かした炭酸水をとくとく注ぐ。
嗚呼、わたしのなかに浸水する。散り散りになったバスの路線図を
かき集めて、皺を伸ばして、修復しながらバスの発車を待っている。

side B:『いただきます』 

♯♯♯

♯空砲ひい、ふう、みい♯季節の文頭が急かされている♯早く、早
く、発声して♯早く、早く、投影して♯鳥よ♯若草色の伝言を届け
て頂戴♯雨上がりに視界が拓けてゆくように♯じわじわ汗ばんでく
るブラウス♯腕のしたに湖が湧く♯穴が開きそうなボートを漕ぎ出
そう♯孔を確認するように♯湖にボートを浮かべる♯つめたさの残
る指先♯暑い気温に溶けそうだ♯かなしみとたのしみで編んだ麦わ
ら帽子が♯風にそよいでいる♯るらら♯あなたにリクエストしたス
ピッ⚫のうた♯流れてゆく歌声をなぞる♯迷子の野犬みたいな目を
したあなたを♯放っておくことができずに拾った♯亡くなった母犬
の母乳を飲むように♯ミルクを啄んだ♯見失われた鳥のセピア色の
写真を♯硝子の灰皿で燃やしてゆく♯薄氷を踏むようなふたりの暮
らしからは♯どこからか水が漏れているかもしれない♯鳥の剥製で
蓋をしてよ♯硝子玉の義眼の輝きと翳り具合は♯どこかあなたの眼
の深さに似ている♯いくら手を伸ばしても触れられないものなの♯

sideC:『ご馳走さまでした』

≧≧≧

時間がどんどん経過していって、わたし、の重力だけが置き去りに
されてゆく。自らをも脅かす毒を内包した球根が両足の行く手を阻
んでいる。網のような地下の根を泳ぎ切れない。あなたは同じ空間
にいても、違ったタイムラインを生きている。しずかな部屋に長針
と短針が降り頻る。残響が球根に纏わりつく。砂漠のなみだを吸い
上げた。長い間、忘れていた道程にちいさな向日葵がほころぶ。ひ
かりを蓄えた種よ、球根に負けるな。目にみえない闘いが地下で勃
発している。芳しい香水のような匂いを放つはなびらのはばたき。
飛んでゆけ、橙色の風船を破る銃声がまた聴こえた。実弾は入って
いない。音のみのファンファーレ。うつくしい威嚇。煌めきがばさ
ばさ、と飛び散る。バスの発車音が誕生日に響いて、躰の輪郭のみ
が凝固して出発した。車窓から、あなた、の方角にも、わたし、の
方角にも、向日葵の花びらが咲き乱れて、さようならを告げていた。

*縦書き表示にしたため「≦」(以下)、「≧」(以上)の記号が横倒しになっています。

 

nostalghia「この部屋を通り抜けていい」

ひとことで言おうか。
この部屋では、許されいる。
悲しみながら、飢えるように、
人を集め、泣いていい
それは、とも、許されいる。
私たちはそれを待っいる。

ここを、この部屋を。
灯りを点けずに通り過ぎていい
百の影とし立ち尽くす
歴史のゴーストを
あなたと同じ色素のものとし
拒んでいい
拒みながら、
あいさつを交わし
通り過ぎ行っていい
次のドアを開けていい

掘り返した土に含まれる、根っこの瑞々しい、
泥のにおい。に満ちた部屋もある。
土足で。雨に濡れ
孤独に。家族がいたとしもいずれ孤独になるから
笑いながら耐え。お腹が空いたら、
私といっしょに。
配信された痛みを共有せずに、
むきだしの床に座っ

あなたが座ると、みんなも座る。
三角座りだと、いい。おやま座りといっていい
体育座り……あぐらをかいいい
待っ……あなたが
ひとことで伝えきれるようになるまで。あなたの
大切なものを忘れ切るまで、
それまでここにいていい
だれも話を聞かないかもしれないけれど……

床は、冷たいけれど……お腹は空くけれど、
この部屋に人は集まる。
だから、飢えていい。飢え……空っぽにすることで、
あなたが誰であったのか、この部屋通り抜けて
どこへ行こうとしいたのか。
渇きながら、伝えきっていい

 

末野 葉「手」

いそげいそげと
自転車を漕いでいたら
手首から先だけが
どんどん離れて進んでいって
前方をふよふよ飛んでいき
小さくなって視界から消えてしまった
つるんとした手首だけでは
ハンドルを危うげに押さえることしかできず
よろめいて転んでしまった
身体のいろんなところを打ちつけて
肘をすりむいて
自転車は倒れたとたん重みを増して
厄介な金属の塊となって もたれかかってくる
手は今頃どこまで行ったんだろう
手単独でなにをしているんだろう
手はひらひらと舞いながら
ある言葉もない言葉も
気ままに作り出していた
思ったこともない言葉を
勝手に方々へ放ち
何年も前に胸に沈めた言葉を
掘り返して目立つところにぶら下げる
手は確信していた
自分は確実に知っているのだと
なぜなら手はその厚い皮膚で
汗ばんで湿った指先の体温で
その言葉たちを一度ならず
じっとりとなぞっていたからだ
手は自分が柔らかに出来ていることを知っていて
硬く鋭いものを握りたがっていた
重たい緞帳を切り裂いたら
そこに何があるのか見たいと
そういえばずっと前
話していたのを聞いたことがある

 

たいち「失語」

トマト が
膨らんでいる
うちゅうの空欄を 埋める
ひとつのことば
と して

腕 が、
秘めやかな迂回路のように伸びて
その終着地 で ねむる
あな


は、
夜 の
まんなかで ひらいて
こころの、仄かな、首都としての 器となれ

えらばれ もぎとられ ひとつが
てのひら
で、
静かに
問いを 発している

その
赤い重力 を つつむ
ゆみなりの
ゆびの
ふね

を、
あな は
すべらせ て ゆく
遠い 遠い
主語



その
やわらかい波紋 が
かすかな モノローグ として
流れはじめ
とき

たた
し に
地平線のような手紙
を、ください

 

了解「早退」

高校生になった時
何の変哲もない近郊と呼ばれる街に住み
自分の世界はそこで完結した

近所に神様が棲んでいた
至って普通の性格だった
熱を出して学校を早退した日
家の近所の児童公園で
小さくブランコを漕いでいる彼を見た

その時私は
数学について考えて歩いていた
樹木は神様に優しく
神様は世界の成り立ちについて彼らを諭されていた

背の高い紳士のような公共時計が
十四時二四分を差し
朝方の満月のように
翼を丸めた天使が膝を抱えて
殺した悪魔を数えている

痛みに気付くと
私の手首の治らない傷から
今まさに心臓から送り出されたばかりの
真っ赤な血が零れていた

昨日の夜の悪夢の通りだった

現実は頑なに目の前に表われて
数学と文学の違いについて
越えることを許されない壁があると教える
栄華もやがては衰える
目を閉じても近郊の街が消えることがないように
神様はブランコを漕いだ

私は彼が好きで
天使を愛していると思うけれど
私に解くべき問題は与えられていないから
彼らに愛される日は一生来ない

コンビニエンスストアの明るさに救われ
汚れに希望を見た人の影が踊っている
珈琲に溶かしきれない
彼らの憂鬱が彼ら自身の心に届くように祈ってしまう

失うものはひとつもない
得ることを考えていれば許される
太陽が地平線にゆっくりと転げ落ちていく

 

長尾衛「朝とスプーン」

朝食を食べた時からはじまっていた
肌感でわかる規模感
朝は海の彼方に向かって
バランスの悪いスプーンみたいに
傾いている
地球の縁に置かれ
そこから一雫スープをこぼした
カーテンは黄色に
クリップはひとつ飛んだ
寝覚めは記憶とすれ違うところ
青い手と白い手が
夜空から口ずさむ祈り
昨日のことを
痛い痛いと思っているのは
口内炎のせいばかりでもないだろう
たったこんな小さな炎症で
世界は居づらくなりそうで
やっと起きた朝
きみをすくうスプーンの縁は
地球の隅っこの丸みで
卵はだからこそ朝に産み落とされるのか
ただ地球は自転して
私はここにいて
決まり切った周期現象が
なぜこんなにも新しいのかは
ニワトリさえも知らない
搾られたミルクは白く牛の悲しみを湛え
青い草原の匂いを含んでいるから
朝露は自然と私にも含まれている
机に伏せたとき頬が冷たいのがそれで
スプーンを手に持って覗くと
水滴みたいに逆さまに姿を現す
私とは
なんとバランスの悪く「私」なのだろう
こんなにも小さくて
縁に置くと一雫落ちて
乾いて
スープは黄色の粉末で
風が吹くと
カーテンの隙間から
大気中へと漂い始める
睫毛を閉じて開けて
卵の殻を破るように
懸命に朝へと這い出る
水滴
おはよう、今日も
朝は
容赦なく新しい

 

芦川和樹「堆『積ハト、果樹」





 口ではない模型ハト。それはふたつめの模型で、燃やす
  と青い(ブルー)性能。はじめのものはそれほどハト
  と思えない。合唱のなかを飛ぶ。あんず。あんず色の
  機体。足あとは〈木〉で、林になって立ち止まる。犬
  だろう。墨をいきおいよく、噴射する。イカは犬の底
  にくっついていたのでマットレス。快適なノイズ(ゆ
  っくり)が聞こえてきます。タンポポの操縦に使うノ
  イズは作曲者不詳で、だれでも簡単に演奏できます。
  ひきだし抽斗
       か
      ら
     煙
    。煙は雲に接続してそれほど、それほど煙ではない。
    夢(昨日)にも似た、ガスマスク。『堆積苺の……
          綿のようなニュートン。ミラーニ
          ューロンの説明を『日傘
    しめじ。茹でて白い軟体になった、では煙、
    それは煙『飼育係の口笛を、
          『バナナ』『バナナ』ピーター・
          ゼルキンと魚が追う『ウサギ
    泡。しゃぼん。山に登って粛々と、
    ファスナーを閉めます
    かかとを割った金太郎はバイソン、偶
    数。偶蹄目、羊メー
    しどろ、もどろ、が、それとなく
    『ゼリーを食べた
    『蛇
      口を、蛇口とは知らず
夜になっちゃった。アメンボは編むのか。それとも綿棒の
仲間。中間にある橋が、橋があるのであれば、スキップす
る布。あのバラ、薔薇は、このまえしらすであったよ。あ
のときのしらすは、いまではバラ、金属片であるよ。す、
もも。カップラーメンに沈んだものは柚子として、クレーンによる
                            回収
カーボン紙の表層を銀                   バ
          色の鳥〈林〉に            ニ
写してしまう。雨がハ                   ラ
          ンバーガーに掴            ス
まって掴まってやって                   テ
          くる掴まって!            ッ
          ぐるぐる回転する扇風機の種、種子は  プ
          回転して飛ぶ。コヨーテ。コヨーテコ
          ヨーテ。パニックにならない芯のス
                         ラ
       ミ                 イ
        ツ                ド
 ミ       バ               /
  ツ       チ
   バ       !そのまま動かない
    チ       干物だ
     !運転する、怪物はパセリ。セロリ
      逃亡するミクロ―クロワッサン
縞しま、を、果樹園の縞し、ま、を、歯ブラシに思
っています。長い根が、馬『堆積メロンの……
塗り薬。『『『……〈枇杷〉みっつめの。ハト!模型は
とてもいいところで現れる

 

 阿呆木種「視認的受動体さとる05」

Good morning
死ね
How are you? I’m fine.
ぼくはさとるです。気持ち悪い
クラスの皆に作られたさとるです。
うさぎのぴょんたと一緒です。ゴミ
皆はぼくがつくられたとおもつてはいません。
そこにいるとおもつています。
けれども僕は視認的受動体です。死ね
皆が気付くまでは、ぼくは、
いつまでもここにいます。
いつまでもここにいます。
ぼくがいないと、ダメだから。

ぴょんたは夕べに死んじゃった。
キュゥキュゥいって死んじゃった。
明日は雨が止まないでしょう。

 

■北原千代選評
どうにかして秀作を書きたいのですが、野心や企てはかえって詩を遠ざけてしまうのではと思うことがあります。振り返って何度も読みたくなり、読むたびに味わいを増してくる作品は、対象を捉える詩人の直感が冴え、もはや作者ではなく言葉そのものが生きているかのようです。言葉自身が行きたいところへ行くのを見守り、その軌跡が無心に記されていて、読み手はそのみちに思わず引き込まれていく…言葉は詩人に先立っていくのではないでしょうか。

 

【入選】
末野葉「分かる」
みずみずしくまた切なく、一読して心を捉え、熟読してさらに感興が深まっていく詩です。イメージの展開が冴え、これ以上は表現しようのないところまで言葉が行き届いて、読者は思わず、それぞれの人生をふりかえられずにいられないでしょう。「勇敢な灰色の虹/水の粒ひとつひとつが/決然と 色を脱ぎ捨てていた」そこから次の最終連がとりわけ見事で、息もつかせぬ言葉の運行です。「あなたたちのほんとうになりたかった色は/まなざしを恐れず佇む/影のような色だったろう」。この詩が多くの読者に届いていくことを願っています。

 

石川順一「転生先」
哀しみをもつ軽やかさが、この作品の真骨頂なのでしょう。「ホーキング博士」「久能山の石段」「自分ちの庭」「東門から入った」ナンセンスな展開ですが、転生などありえないと思っている読者も、「心なしか柔らかくなった土」にはっとさせられ、転生とはそういうことなのだ、と納得するでしょう。ちょっと真似のできない、詩人のひらめきを感じました。よいか悪いかは別として、とにかく作品に引きずられてしまう、そういう魔力を持つ詩です。別の作品「思い出」も良かったのですが、「転生先」は読むたびに味わいが深まりました。

 

泉水雄矢「ムンヘイ」
磨かれた言葉で人間愛を描いた力作です。ドキュメンタリーの映像をみているように、風景描写が冴えています。語りが生きている詩で、人物がたちあがってきます。「北京の春は まだリラの花が咲くよ」は、読者に向かって差し出されているようで、とてもすてきです。秋吉台の草むらから詩のなかに入っていくのは少し散文的に感じられますが、詩篇に時の厚みを加えていて省くのは残念でもあり…「苔」の時間を活かしながら別の表現を考えてみるのはどうでしょうか。別の作品「水圧」もよかったです。

 

気駕まり「テストの時間に」
作者は生徒なのか先生なのか、「教壇の下でうずくまっている」のですから、先生として読みました。紙切れのテストで試される世界史の知識、「正義」の移り変わりの虚しさを、きびしく断罪しています。この先生は「人間」のことを、千年経っても変わらない真理のことを、生徒たちにどうしても教えたいのでしょう。「気を失うくらい/強く 深く」楔を打ち込もうと呼びかける真情は、生徒らに伝わっているだろうと思います。それゆえ「根無し草の夢」は美しい語ですけれど、感興が萎むようで少し残念に思いました。

 

守野麦「犬の祝辞」
構成といい細部の表現といい、あまりにも見事で鮮やかで、詩の王道をいく作品だと思いました。子犬から老犬へ成長し、それぞれの言辞がまたそれらしくユーモラスで、巧みに過ぎて危うさを覚えるほどです。若犬の「今こまかくお幸せに」のたどたどしいような言葉がほほえましく、もっとも人間臭く感じられて好感を持ちました。炬燵布団の中でパン種になった老犬!なんともすばらしい着想です。

 

【佳作】
小蔀県「園」
「暗がりの研究者」と自称する冒頭が興味深く、どこまでも暗いのですが、立ち止まらせないなにかに導かれて読みました。人間の生息する園は、「遊具も露店もなかった」と思えてくるような日が誰にもあるでしょう。暗闇をいくのはじぶん一人だと思わないで、「いつも人々と一緒に息詰まる」ところで、この詩は閉じてしまわず、読者のところへ届こうとしている意志が伝わってきました。

 

新梢「カロート」
嗅覚がとても多くをものがたっています。短い詩篇ですが、「貴方」との暮らしや喪失の思いが色濃く漂ってきました。カロートとは納骨室のことでしょうか。タイトルもまた、多くを語っています。「ねえ。」の語りかけがことのほか効いて、「日が沈んだ」の終行も、「貴方」をおもい続けて日が暮れる、拠り所なさをとてもよく表していると思いました。

 

梶本堂夏「Agagio February
不穏なAdagioです。しずまりかえった二月の深夜には、「あとがきを読んでしまいそうになる」直観力が冴えわたり、時計の長針も、喉に入っていくべき液体も凪いで、その凪に釘を打たれる予感を覚えて思わずふるえる。冒頭のブックマッチの描写も、たいへん繊細です。

 

たいち「失語」
失語を患うらしいたどたどしさを印象づけるような表記へのこだわり、どこにも無駄がなく、完璧に美しい表現です。巧みさが冷たさに移り変わり、ともすれば感動が浅くなってしまうところ、「ふたたび/わたし に/地平線のような手紙/を、ください」に、すんなりと心を奪われました。そのような手紙をいただいてみたい、と思いました。

 

I.me「前菜」
「気品な丸い皿」「硝子も並ぶしばしばと」「一息掛ける」など、読者を躓かせる言葉の疵が、皿の欠けを連想させ、カトラリーの音もするようです。ナイフとフォークをそうと名指しせず意味深長に現していますが重くはなく、この皿に載っているのは「時の虚無」かもしれません。確かなことはわかりませんし、意味を追うと逃げていってしまいます。あちこち欠けがあって躓きながらも、音を伴うふしぎな透明感を味わいました。

 

■根本正午選評
【入選】
渡邊荘介「薄球」
私は野球というものをきちんとプレイしたことがないのですが、この詩のボールは野球で使われる単なる道具であると同時に、ボールを越えたなにかをあらわしてしまっていますね。よく読むと、ボールがボールであるのは第一連だけで(「真芯にとらえたボールは/空をつき抜けて飛んでいった」)、第二連からは少しずつその喩が変化してゆくさまを窺うことができます。第二連から第三連にかけて「白い色が光の色をやぶって/歓声といっしょに 果てまでみえず/その先は知らないでいる」)は、人生において役割を終えてしまった(あるいは終えたと思っている)だれかの姿が浮かび上がって見えますし、熱狂や興奮から遠ざかるかなしみが透けて見えてきます。題名の「薄球」は、最初は白球のもじりかとも思ったのですが、これは少しずつ年を取り、できることよりもできないことのほうが増えていく、希薄化する私たちの命のことなのかもしれません。転がってゆく球は時間でもあり、不可避的に磨り減ってゆく人生でもある。詩の最後に向けて、そんな球がいつの間にか「まっ白ないのち」に変わっていたことに書き手が気付くとき、置いてゆかれるさみしさと同時に、新しく告げるなにかがどこかで生まれているのだという、その眼差しに勇気づけられます。

 

田中綾乃「虹」
かつて飛行機の上から虹を見たことがあります。虹はじつのところ橋ではなく「円」なのだということに、そのとき気が付かされました。この詩を読みながらそれを思いだしたのは、ひとはたとえば飛行機に乗ることがなくとも、見えないものを見ることができるのだという気づきが詩にあったからでしょう。第一連にある「あなたの手は森を撫でる風/その手にふれた時/もうひとりのかなしいわたしに/わたしのかなしさが/合わさって/光環を成した/地上のすべての恋人たちに/同じようにいくつもの/完全な日食があるように」を読むとき、読者が感じるのは恋人同士の喜びではなく、日食の月と太陽のようにけして交わらない(そして一見、ふたつは触れ合っているかのように見える)関係性のかなしみではないでしょうか。詩はこれらふたつ(またはそれ以上)の交わることのないものたちを巡って展開してゆきます。「ゆるさないのは/妻夫だけが 家と/信じる者たちだけ」などの連を読むと、詩でかたられている虹はいわゆるレインボーフラッグ運動でもあることを窺うことができますが、私はこの詩の焦点は私たちの間にあるどうしようもない距離や不和に当てられていて、その間に存在し得る・し得ない橋をかけることの難しさについてかたられているのだという読みをしました(「まっすぐな くずれやすい橋の袂に/昏い雨の跡を かくして」)。もし、口を閉ざすことを止められれば、あるいは武装を解くことができるのならば、私たちはわかりあうことができるのでしょうか。その答のために「重ねてきた掌と掌に/しまいこんだ祈り」があるのかもしれません。

 

未来の味蕾「向日葵の晩餐会」
ほぼ正方形に区切られた三連。視覚的には画像がどんどん流れてくる写真系SNSを想起させますね。この投稿欄はメールで原稿がそれぞれ送られてくるので、この詩も横書きを想定してつくられた詩なのかなという感があります。「召し上がれ」が第一連、「いただきます」が第二連、「ご馳走さまでした」が第三連で、それぞれ現在過去未来(または未来に向かう現在)に呼応しているという読みをしました。まず語り手がいるバスの停留所があり、出発するまでの間に過去のことを回想し、最後に旅立っていくまでの一連の意識の流れがこうした形式に落とし込まれているのではないでしょうか。第一連、「夏空を溶かした炭酸水をとくとく注ぐ。嗚呼、わたしのなかに浸水する。散り散りになったバスの路線図をかき集めて、皺を伸ばして、修復しながらバスの発車を待っている。」は鮮烈な一行で、浸水しているのは水だけではなく風景の断片であり、その色彩であり、まただれかとの思い出でもあることが重ね合わせられていて、書かれていることば以上のイメージが浮かび上がってきます。ハッシュタグが多用される(おそらくは記憶のなかのスナップ写真として)第二連は、第三者に見せるためにだけ撮影される風景写真や関係性のことを想起させますが(「#早く、早く、発声して#早く、早く、投影して」)、詩はその作為性に自覚的であり、第三連に向けて、そうした営為はけして相互理解やつながりを生み出すものではないことが示唆されているようです。だから「あなたは同じ空間にいても、違ったタイムラインを生きてい」て、さようならを告げる最終行がふと必要とされているのかと。

 

nostalghia「この部屋を通り抜けていい」
この詩の「部屋」とはなんでしょうか。その答について考えながら夕食の準備をし、ふたたび机まで戻ってきて再読しながら考えてみたのですが、この部屋とは、ひととひととが交流する社会的空間であり、場のことではないかという結論に至りました。SNSなどの場も部屋といえるでしょうし、教室や職場もそうですね。読み返してみて印象深かったのは、「通り抜けていい」が、すべて通り抜けてはならないか、あるいは通り抜けることはできないに聞こえることでした。たとえば第一連の「この部屋では、許されている。/悲しみながら、飢えるように、/人を集めて、泣いていい。」が、許されないし、泣くこともできないと聞こえてくる。それは語り手が詩に埋め込んでいる不穏ないくつかの行、たとえば第一連の「私たちはそれを待っている」や第三連の「配信された痛みを共有せずに、/むきだしの床に座って」などの効果によるものだと思います。詩の核心に、部屋を通り抜けられないこと、あるいは不能性があると読めます。理解や共感の不可能性といってもいいでしょうか。あらゆる場所に部屋があるのに、そこにいる私たちはばらばらになっていて、それが「だれも話を聞かないかもしれないけれど……」という一行に繋がってゆく。詩は「渇きながら、伝えきっていい。」と締めくくりますが、かつてないほどコミュニケーションが楽になった(はずの)この現代社会に漂う透明な飢餓感が、こころに投影されて残ります。伝えられないことそのものを、伝えるということ。

 

末野葉「手」
頭が忘れていても手が憶えているということがありますね。書いていると、手が詩を書いているのか、それとも頭が書いているのか、わからなくなることがあります。「いそげいそげと/自転車を漕いでいたら/手首から先だけが/どんどん離れて進んでいって/前方をふよふよ飛んでいき/小さくなって視界から消えてしまった」——ことば自体が考えているのか、それとも私が考えているのか。私はこの詩を、書かれてしまった詩とそれを書いた詩人との関係性についての作品であるという読みをしました。書いているとき、私たちは自分が詩をコントロールしていると思っているのだけれど、じつはそうではないということがあると思うのです。詩のほうが自分より先んじて考えているような、書きたくないことを勝手に暴いているかのような気がすることさえある。それは書くということが自分のなかにあるわけではなく、外にあることばの総体としての言語を参照しながら、第三者のいわば「手」を借用して行うほかないという事実によるものだと思います。手を使わずに自転車を運転するような感覚は、そんなのっぴきならない関係性をあらわしているのかなと思いました。詩の後半「手は自分が柔らかに出来ていることを知っていて/硬く鋭いものを握りたがっていた/重たい緞帳を切り裂いたら/そこに何があるのか見たいと」には、隠しておきたいものを暴こうとする欲望が、書くという営為のなかにあるという気付きがあります。詩は自分のものでありながら、自分のものではない。その矛盾には常に緊張感があり、そうした難しさにかたちがあたえられているという読みをしました。

 

【佳作】
佐為末利「深海トーク」
第一連、「ずっと/ってないらしいよ/あこがれは永遠じゃない/それを気づかせてくる人たちが/こっちを見て手招きしてる/でもそちらを向いてしまったら/あたしの心はもう戻らないことを、/知っている」を読むと、思わず「戻らないよね」と原稿の前でつぶやいてしまう、そんな喚起力がありますね。気づいてしまった瞬間に終わってしまう、あるいは認識そのものが変化した結果、それまで見えていたものが見えなくなってしまう、そうした不可逆的な理解を切り取ってかたちをあたえるのも、詩の役割なのではないでしょうか(それもわかりやすく、魅力的なかたちで)。最終連、「子どもの頃、もっとはんこうしとけばよかったかな?/その頃の傷なんて もはや無傷、/凍てつくほどの無邪気さで 傷つけ返せばよかった/あたしの××はもう底が深くて/取り返しつかないよ/生きてても死んでても もはやいっしょ」も、話しことばの自由度の高さに惹かれます。(詩を)書いても書かなくても、もはやいっしょ!

 

深月水月「うみひこ やまひこ」
題名からは昔話を連想しますが、読み始めると印象が変わります。「そうして私たちは二つに裂かれることにした。/ちょうど半分であったか僅かに偏っていたのか/開かれた傷口からはかることはできなかったが、/身軽になったのと同じ重さを持つ男が家へ住みつき/わたしは海辺の街の住人となった。」詩では海と森にわかたれた存在が描かれ、森(山)には女たちが住む里があり、結婚した女たちは海辺で住む決まりがあることがかたられます。「子育てがはじまり森を思う時間はなくなった。/黄昏泣きをする子を扱いあぐね/河口へと行けば、わたしだったような女が/ぼんやりと川を下ってくる。」も、様々な解釈ができると思いますが、私は社会から強いられる役割(女、母または男、父)に、好むと好まざるにかかわらず従わなければならない軛についての詩なのだという読みをしました。川の流れが絶えないように、そうした営為がひたすら繰り返されていることが暗示され、重みのある読後感をあたえています。

 

魚「ゆきわたる」
第四連、「かなしみ/がなしみ/かなちみ/すべて撚りあって/いっぽんの絹の糸が/おれのからだからほどけていく/ととと/と音を立てながら」はとくに印象深い連です。ここでかたられている三つのかなしみが、それぞれ一部が濁音とチ音で置換され、微妙にぶれていることにも興味をそそられます。冒頭は「青い寝床の/青い枕に顔を埋める」から始まるので、これは眠る前の一瞬を切り取った詩なのだということが示唆されていますが、少しずつぶれてしまったことばたちの総体としての自分を、あらためてしずかに解いていくことが、この詩の書き方なのではないかと感じられました。「枕の奥の暗いくらい夜では/目をとじるも/目をひらくも自由/沈んでいくからだのなかで/仰向けとうつぶせを/くるくるくりかえす精神/いま月光として夜を浮かび/からだじゅうにゆきわたる」も、月光としてのことばをゆきわたらせるための儀式としての詩があるのだということを考えさせられます。

 

三刀月ユキ「不在」
「不在の人は/そこのホワイトボードの出勤表に/書き込んでおいて下さい」という第一連でいわれている不在は、いることが隠蔽されているという事実にくわえて、「ほんとうはいるけど、いないことになっている」という、建前と本音の乖離をあらわしていることに注目しています。たとえば、この社会では詩は読まれていないし書かれてもいない、そういうことになっている、だがしかし……という、欺瞞のあとに続いてくるものが重要なわけですよね。それは社会に対する個からの反撃とも読めるでしょう。一方で、詩の終盤の「すべてなる在は 不在の子ども/白骨の殻の卵/不在となった名は わたしの最後の爪痕/もはや叫んでもだれの耳にもとどかない/優しい黒衣につつまれて/夕刻の遮断器の向こうに/わたしはいません」に書かれているのは、声高に「ここにいる」と主張する声ではなく、むしろ不在や不能性にとどまるのだと囁くような声で、強く惹きつけられました。

 

南田偵一「おにぎる」
おにぎりは「お・にぎる」でもあり「鬼・切る」でもある、ということをまず考えさせられる題名ですが、第一連を紹介してみます。「少し重いようだから/体の一部を軽量化することに/かき氷屋を訪れた/おにぎってしまえば/ただの水ですからね、こんなもん/味があろうと/色があろうと/糖分があろうと/水は、みず/血だって、みずです/ごくって、やってしまいましょう」さて、ここでなにがかたられているのか。「おにぎってしまえば、ただの水」という一行にまず惹かれましたが、ここでは名付けることの神秘というか、いわばことばの詐術に焦点があてられているという読みをしました。米は加熱すればご飯となり、にぎればおにぎりとなる。詩はただの詩ですが、ある手順を踏むことによって「現代詩」となるかもしれません。こうした転換の現場を前にしたとき、「ただの水ですから」とうそぶくしかありません。ところでこの詩には実は一度も本物の「おにぎり」は登場しないのです。たったひらがな四文字の強度が、鬼よりも強いということでしょう。

 

 

■渡辺めぐみ選評
【入選】
たいち「失語」
詩語が短めで、平仮名と漢字のバランスが工夫されていることに特徴がある。「失語」というタイトルとは裏腹に瑞々しく伸びやかな固有の世界が展開している。「トマト が/膨らんでいる/うちゅうの空欄を 埋める/ひとつのことば/として//腕 が、/秘めやかな迂回路のように伸びて/その終着駅 で ねむる/あなたの/手/は、/夜 の/まんなかで ひらいて/こころの、仄かな、首都としての 器となれ//えらばれ もぎとられた ひとつが/てのひら/で、静かに問いを発している」部分は、トマトの膨らみという小さな自然の実りから宇宙的な視野に発展してゆく過程のなめらかな描写に惹きつけられた。最終連の「ふたたび/わたし に/地平線のような手紙/を、ください」部分の愛情欲求の詩行も、地平線というダイナミックな単語の使用により、空気を動かすような清々しい読後感が残った。

 

了解「早退」
よくまとまっており、展開感も楽しめる作品だ。天使や悪魔という言葉が多用されているが、生活感が失われることはなく、むしろ現実感が増している。神様についての「近所に神様が棲んでいた/至って普通の性格だった/熱を出して学校を早退した日/家の近所の児童公園で/小さくブランコを漕いでいる彼を見た」、「樹木は神様に優しく/神様は世界の成り立ちについて彼らを諭されていた」などの作品世界への導入部の筆致が巧みで、映像的な美しさを持つ。「背の高い紳士のような公共時計が/十四時二四分を差し/朝方の満月のように/翼を丸めた天使が膝を抱えて/殺した悪魔を数えている」部分は時刻に具体性があり、演出効果を備えた現実を捉え直す詩行として卓抜だ。

 

長尾衛「朝とスプーン」
朝食のときに使うスプーンを通して朝を知覚した着想の豊かな作品だ。「朝は海の彼方に向かって/バランスの悪いスプーンみたいに/傾いている」、「青い手と白い手が夜空から口ずさむ祈り」、「搾られたミルクは白く牛の悲しみを湛え、青い草原の匂いを含んでいるから/朝露は自然と私にも含まれている」などの詩行にポエジーが光る。最終4行の「水滴/おはよう、今日も/朝は/容赦なく新しい」部分は一日を始めようとする決意が水滴の位置から発信されていて、肯定的なエネルギーが感じられ新鮮だ。

 

芦川和樹「堆『積ハト、果樹』」
五感を全開にして、意味によって成り立っている文脈から世界を取り外し、新たな世界を構築する装置のような詩だ。タイトルからして「堆積」という二字熟語が解体されている。作品全体の印象は拡散しているが、視覚的効果だけでなく、独特の語感、音感が部位で読者を楽しませる。また、意味から遠くとも、生存にまつわる郷愁や人肌のぬくもりも感じられ、活性化された頭脳だけで書かれた詩ではない。例えば「口ではない模型ハト。それはふたつめの模型で、燃やすと青い(ブルー)性能。」、「タンポポの操縦に使うノイズは作曲者不祥で、だれでも簡単に演奏できます。」などの生き物や植物の要素が織り込まれた詩行には、無機的な言語の果てにも存在し続けるだろう生命の息吹が健在だ。

 

阿呆木種「視認的受動体さとる05
現代を生きる高校生にしか書けない詩だと思った。学校生活での様々なストレスや思春期の生への違和感が「視認的受動体」の「さとる」の創造につながっているのだろうか。冒頭のいきなり書かれる「Good morning/死ね」部分の詩行から、いじめや体罰などが行われる可能性のある危険を孕んだ学校という環境への恐怖心がそそられる。続く「How are you? I’ fine/ぼくはさとるです。気持ち悪い」部分の詩行も「死ね」同様「さとる」に注がれる「気持ち悪い」という蔑視感をともなう冷たい視線がリアルに表現されている。と同時に「皆が気付くまでは、/ぼくは、/いつまでもここにいます。/いつまでもここにいます。/ぼくがいないと、ダメだから」部分の詩行から「さとる」の抵抗感覚が示されてもいる。「さとる」はいじめなどによって殺されたか自死してしまった生徒の名だろうか。20行に満たない短い作品の中に作者が述べたいことが圧縮されており、語りの上手さも感じさせる。

 

【佳作】
久野馨「化石評論」
短い作品で物足りない気もするが、発想が面白く、各連の最終行の「ぱちぱちぱちぱち」という平仮名で記されたどこか冷めた感触の拍手のオノマトペの音が効いている。第一連の「アンモナイト/オパール化/遊色が素晴らしく/恐竜より巨大だ」部分の詩行や、第三連の「ストロマなんとかの木の化石/つるつるすべすべ可愛らしく/なぜか水には浮かないらしい/その不思議さが評を集めた」という詩行には、そこはかとなくにじむユーモアのセンスがあり、切り詰められた言葉による淡々とした語り口に不思議な魅力がある。

 

吉岡幸一「螺旋階段」
この詩人の寓意的な物語性の高い詩は、概念化された詩行から常に成立し、実写を含まない。物語には枝葉を省き必要最低限の情報しか記されていない。この詩法を現代詩よりも他のジャンルに向くのではないかと判断する読者と、現代詩を広く規定し吉岡幸一のような詩人を貴重な存在であると評価する読者とに分かれるかもしれないが、圧倒的な筆力があることは確かである。
今回はある青年が螺旋階段を登り始め、何十年も登り続けていく間に老若男女の登山者と出会う。先を行く者、登ることを諦めて下ってゆく者、青年に途中でここで一緒に暮らさないかと誘う夫人など様々な人間達がいる。そして三十年で青年は腹の出た中年になり、さらに登り続け頂上のような開けた場所に出ると元青年はこれで終わりだと涙を流すが、犬が寄ってきて「これからがスタートですよ。さあ、階段を登ってくださいと告げる。」やがて老人になっても登り続ける青年は登る意味など考えず、「登ることがすでに頂上にいることと同じと思っている。」という一種の悟りに達するのだが、螺旋階段を登ることは生きること自体であり、そこに特別な理想や意味を見出す必要はなく、人生そのものがと尊いのだと言いたいのだろうか。詩に常に倫理が内在する詩人だ。欲を言えば倫理からはみ出す遊びや余白部分がもっとほしい。

 

卯野彩音「手紙」
夏祭りの夜に交通事故で亡くなった孤独だった転校生の「奏絵ちゃん」から、夏祭りに一緒に行ってくれた作者に感謝の気持ちと死後の状況説明のための手紙が届くという設定で書かれた詩である。突然迎えた死の無念さを訴えた詩行までは「みんなにさよならも言えずに消えてしまったことが/くやしくて 悲しくて」と常套句で綴られているのだが、後半で奏絵ちゃんが河原で石を拾っては小さな石の家を作っていることが語られ、そこから死後の世界と今生との往還が描かれてゆくにつれ死者の悲しみと今生に戻りたい思いがあぶり出しの絵のように静かに迫ってくる。「私の他にも石の家を作っている子はたくさんいますが/家になったかと思うとオニにこわされてしまいます/石の家を作る仕事はいつ終わるかわかりません」という詩行が切なく胸に響く。しかし、手紙の最後は「宝石のような石を見つけました/その石のかけらを手紙といっしょに送ります」とあり、作者は「手紙の上にある石のかけらが奏絵ちゃんの涙のようにも見えました」と受け止める。お互いを思いやる気持ちによって生と死の境界が突破されていくことに感動がある。

 

南田偵一「金も、銀も」
キンモクセイの鉢植えを本当にキンモクセイが咲くのか手描きの札で「キンモクセイ」と書かれていることによってしか確信が持てない状態で購入した作者の心理が、事細かに記された作品である。大きなテーマに挑むことばかりが詩ではないということの証明のような、ささやかで貴重なキンモクセイが咲くことへの期待感が読ませる。南田の詩は基本的にラフなタッチの散文脈だが、作者の乗りの良さで読者が常に乗るとは限らないことを想定し、詩語を制御したほうがいいのではないかと思われるところもあるものの、それがこの詩人の持ち味でもあるのだろう。最終連は「キンモクセイを庭に植える頃、貸家の契約を何度更新しているのだろう。新たな鉢底石、培養土を敷き詰め、鉢をベランダに置いても、まだ片鱗も見せない。」という詩行で終わる。生真面目な日常生活の予測のみがなされキンモクセイが花ひらく日にまだ達していないところで作品が閉じていることで余韻が残り、味のある詩になっている。

 

角朋美「折鶴」
角朋美は強く伝えようとすることの一歩手前で詩を紡ぐ。詩が主張ではないことを熟知しているからだろう。簡潔な詩語から醸し出される情景と、そこに伏せられた作者の言葉にしがたい内面が、簡潔さによって展開力不足であるときと、ストレートな切り込みの冴えによってインパクトのある詩になるときとがあるように思う。本作品は、病弱であった過去の痛みが折鶴と向き合う思いを誠実に綴ることで切実に伝わってくる。「左腕に針を刺されながら/病室で見上げる折鶴は/だれかの願いがこめられていて/静脈へ伝わる点滴の薬剤を/すこしだけ冷たくする」という第一連に折鶴に願いを込めたひとの名が記されず、「だれか」と書かれることによる普遍化が行われていることで感傷的にならないことや、第三連の「普通への渇きに/あてがわれた千羽鶴が軋む」という詩行の「軋む」という詩語から千羽鶴によってあがなわれなかった痛みが残ることをさりげなく示唆していることで、予定調和的な作品にならず実存的な重みのある作品に仕上がっている。

 

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